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萩往還スタートの宿をしのばせる明木地区(あきらぎちく)で技まつりが開催
歴史街道「萩往還」の最初の宿「明木宿」
明木と書いて、”あきらぎ” と呼びます。
明木地区は萩市街地から256号線を車で10分ほど南下したところにあります。
この明木地区はかつては明木市(いち)もしくは明木宿(じゅく)と呼ばれ、萩往還の成立とともに宿場町もしくは市の宿として栄えるようになりました。
萩往還は毛利氏が萩城を築城後、参勤交代のために萩から防府の三田尻港へと続く御成道(おなりみち)として整備された道のことです。
萩からほぼ直線にして約53キロの行程があり、江戸時代には山陰と山陽を結ぶ交通の要害として重宝され、幕末には志士たちが足しげくこの道を往路しました。
毛利のお殿様はお城を出立した後、この宿でひと時の休息をとったといいます。
この明木宿を抜けると次は佐々並市(ささなみいち)、防長国境の峠である板堂峠(いたどうとうげ)を越えて山口に入り、そこから防府三田尻港へと続きます。

大平山山頂から望む三田尻港
そこから瀬戸内海を船で通って大坂に上陸し江戸への道を参勤交代したのです。
萩往還の道は今でもその多くが国道、県道として利用されていますが、一部廃道となったところもあり、現在では歴史をしのばせる道として関連自治体による復旧整備が進められています。
さて、そんな歴史街道沿いにある明木地区ですが、残念ながら明治24年の大火によって集落はほぼ全焼してしまい、景観と記録もともに失ってしまいました。
しかし、250年前に萩藩のお抱え地図絵師有馬喜惣太(ありまきそうた)が描いた御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)に、明木市の様子が残されています。
御国廻御行程記とは萩藩主が領内巡見の際のガイドブックのようなものです。

御国廻御行程記に描かれた明木市の様子
1845年ごろの記録によりますと、明木市には軒先が73軒、そのうち商家が20軒、宿人夫馬持が53軒となっています。
佐々並市もほぼ同規模で、軒先が62軒、そのうち商家が15軒、宿人夫馬持が47軒となっています。
また目代(もくだい)と呼ばれる役人の事務所が一軒あり、必要な人馬や籠の調達や経費出納事務を行っていました。
幕末のころには宿泊施設が増えたそうです。
これは志士たちが萩往還を頻繁に往来したためといわれています。
松陰が護送されて最後の宿を過ごした地
上の写真は明木地区の街道に沿って流れる川です。
かつて藩政時代の明木橋があった付近に現在かかっている橋から撮ったものです。
ご覧になられるようにとてもきれいな水質の川です。
まあ山口の川はどこもきれいなのですが。
幕末の志士吉田松陰は国禁を破ってアメリカに渡ろうとして江戸から萩へと護送される途中、この橋を渡りましたが、その際次の詩を詠みました。
少年有所志 題柱学馬郷 今日檻興返 是吾晝錦行
少年志すところあり、柱に題して馬郷(ばけい)を学ぶ。今日、檻興(かんよ)の返(へん)、是れ吾(われ)晝錦(ちゅうきん)の行(こう)。
意味は、”私は少年の時に明木橋で志を書いた。そして今日檻に入れられて返されてきたが、今は故郷に錦を飾って帰る思いである。” といったところです。
とはいえ、この時の松陰は一緒に捕らえられた金子重之助の身を案じていたたまれない状態でもありました。
金子重之助は護送される前から体調を崩し、下痢が収まらず、籠は糞尿まみれになりながらそのままの状態で1カ月近くたっていました。
松陰は弟子の身を案じてハンガーストライキを敢行するなど、最後まで弟子の窮状を救おうとしましたが、最終的に萩の捕縛の地で金子は病没します。
松陰は弟子を巻き込んでしまったことを悔い、斬首されるまでの1年間食事を切り詰め、その分で重之助の墓を建ててくれと弟子たちに頼んだのです。
松陰生誕の地にある銅像には、金子重之助が松陰先生を見上げている像になっています。
なぜ松陰があれだけ弟子たちから敬愛されたのかがわかる逸話です。
この明木地区からほど近いところに道の駅「萩往還」がありますが、この駅の中に無料で入れる松陰記念館があります。
祈念館には松陰が道中を行き来した際の旅装束の数々や、処刑される直前に読んだ辞世の句なども飾られています。
85店ものお店が街道沿いに軒を連ねる大規模蚤の市
さて、そんな歴史の舞台となった明木地区ですが、「技明木展萩往還まつり」と題して多くの店がストリートに出店されていて、華やいだ雰囲気になりました。
距離にして300m程度でしょうか、端から端までゆっくりとみて歩くと30分ほどかかります。
その道すがら「乳母の茶屋」と呼ばれる建物があります。
この茶屋の場所にはもともとお茶屋の跡地にあり、ここに住居を構えていた佐々木家にゆかりのある方によれば、佐々木家の先祖に毛利家の乳母をしたことがある人がいたそうです。
そして毛利公からお茶屋を下賜されたとの言い伝えが残っているそうです。
その乳母の茶屋において中学生による吹奏楽団の演奏会がありました。
中学生らしい元気溌剌とした演奏で、まつりを一層華やいだ気分にさせてくれていました。
この会場では、他に「オカリナ風花とアルパ演奏」「エイサー踊り」「アロハフレンズMasu」「萩オカリナ塾」などが催されていました。
この地区には瀧口酒造という酒造がありますが、ここの銘柄は「旭鶴」です。
残念ながらすでに醸造はやめたそうですが、辛口の味わいを維持したままブランドを販売しています。
竹かごを並べている竹かごやがありました。
竹で編んだ籠は明治中期にはこんな形で売られていたのですね。
私も一つ入浴の際の衣服置き用に買いました。
籠は始めは緑の若葉色をしているのですが、徐々に小麦色へと経年変化し、竹の繊維が伸びて広がるそうです。
この籠をもって歩いていると、道端でおばあさんが「いい籠買ったね」といってくださいました。
ブルーのきれいな色をした器が並んでいました。
これは沖縄陶器「やちむん」です。やちむんとは沖縄の方言で「やきもの」のことです。
このブルーは沖縄の海を思い出させます。
この建物は昔の公会堂でしょうか、立派ですね。
浄土真宗瑞光寺(ずいこうじ)の立派な門構えの前にも出店。

瑞光寺(ずいこうじ)の立派な門構え
手縫いのきのこのアクセサリー。Rice with two of Usさんがつくるイヤリングや針山などなど。
地元の人の話によれば、私が訪れた4日もたくさんの人が来られてましたが、前日の3日のほうが人が多かったそうです。
金曜日ということもあり、他でイベントがなく分散しなかったからだろうとのことでした。
普段は静かな古地区ですが、GWのこの2日間は往時の賑わいぶりを取り戻したかのようでした。
個性的な鬼瓦たちと山口でよくみられる赤色の石州瓦
これは明木地区に限らず、山口県内全域、島根にかけての山陰地方もそうなのですが、屋根瓦が赤いのです。
これは石州瓦(せきしゅうがわら)といって島根県の石見地方で製造される瓦のことです。
この石州瓦、塩害や凍害、積雪に強く水を通さない材質のため、潮風が吹く日本海沿岸地方や冬場に凍結する山口県内陸部などでは良く見られる瓦です。
赤い屋根が続く街並みは、まるでスペインのアンダルシア地方を思い起こさせます。
山口県の国道を走っていると、田園風景に赤褐色の家々が映えるのと山口の山はそれほど高くなく小高いので、まるで日本昔話にでてくるような風景です。
またどの民家の鬼瓦も個性的で、楽しませてくれます。
山口から萩へと続く国道256号線の途中に明木地区はありますので、その際はお立ち寄りになり萩往還の名残を感じてほしいと思います。