萩市の花である椿(つばき)の由緒
萩市の花にはハギの花のほかにツバキがあります。
萩市内には椿の名前の付いた地名が多く、椿東(ちんとう)、椿西(ちんぜい)などが残っています。
萩という地名の由来が、ツバキから”ツ”がはずれて萩となった、なまって萩になったという説があるからです。
萩市街の北東に越ケ浜漁港があり、そこに隣接する笠山(かさやま)と呼ばれる標高112mの小高い山の一帯にツバキの自生林が存在しています。
椿は植物学上の種はヤブツバキであり、学名がCamellia japonicaと称されるように日本原産のものです。
そのため中国には椿がなく、ツバキを称するに「海榴」を用いていたといいます。榴とはザクロのことであり、海を渡ってきたザクロという意味から日本由来のものであることがわかります。
遣唐使の時代、貿易に日本からはツバキの油を輸出していたといいます。これはツバキの種が大量の油を含んでいるためです。
したがって椿の漢字はもともとなく、椿は日本の国字、造語です。
椿は花がボトッと落下することから、侍には縁起が悪いという話がありますが、これは明治に入ってから流布した俗説で、江戸時代、武家屋敷の庭には椿がよく植えられて愛されていました。
もし椿が侍にとって不吉なものであるなら、椿三十郎のような映画はつくられなかったでしょう。
特に二代将軍徳川秀忠が椿を好み、それがために芸術の題材としても広まったといいます。
歌川広重などは椿を題材にした浮世絵を何枚か描いています。
椿が珍重されたのは、冬に花が咲く数少ない植物だからということもあるでしょう。
19世紀には欧州でも大流行し、「椿姫」というオペラにもなりました。
萩と椿の関係には例えば東京の椿山荘(ちんざんそう)があります。
椿山荘は明治の元勲であり萩藩出身の藩士であった山縣有朋(やまがたありとも)公が、1878年東京文京区の早稲田の地に邸宅と庭園を構えて客をもてなす場所としたことが始まりです。
元々この地には黒田氏の下屋敷があり、南北朝時代から椿が自生する景勝地でした。
この椿山荘を同じく萩出身の長州藩士で藤田財閥の創始者である藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)の息子である藤田平太郎が譲り受け、東京での別邸としました。
戦後、藤田興行から藤田観光の経営下、フォーシーズンズ・ホテルとして開業、現在はホテル椿山荘東京として営業しています。
このように萩と椿の由緒は深いものがあり、これから紹介する笠山のある越ケ浜地区のマンホールには椿が描かれています(萩市のデザインマンホールのサイトから拝借しました)。
この越ケ浜に隣接し、笠山の入り口にあたる場所にあるのがマンホールにも描かれている明神池です。
明神池は笠山と本土との間にできあがった砂州(さす)によって陸続きになったときに埋め残された海跡湖です。
つまり明神池は池でもあり湖でもあります。
現在も池の水は溶岩の隙間などを通じて外海とつながっており、マダイ、クロダイ、メバルなどが生息しています。
自然の魅力があふれる火山・笠山にある椿群生林
笠山というのは北長門海岸国定公園の中心に位置し、安山岩で構成された溶岩の大地に直径30mほどの噴火口を持つスコリア丘がのった火山です。
活火山・阿武火山群に属し、頂上から望む日本海の風景はすばらしいものがあります。
笠山の海岸線からは、同じく阿武火山群の大島、櫃島(ひつしま)、肥島、羽島の島々が見えます。
ハイキングコースも整備されており、距離にして約6キロ、所要時間は3時間程度です。
笠山の安山岩は江戸時代笠山石と呼ばれ、萩城下町の区画整備によく使用され、石垣、墓石、燈籠などの資材に使われました。
藩の許可を得た石工だけが石切りの役にあたりました。今でもその跡が残っています。
この笠山の北端(虎ヶ崎)10haの土地に約25,000本のヤブツバキが自生しています。
ヤブツバキは東北以西の暖地に生育する常緑の小高木で照葉樹林の代表的な種です。
ここでは萩ジオパーク推進協議会のパンフレット「自然の魅力がいっぱい 笠山・椿群生林」から説明をお借りします。
笠山は江戸時代、萩藩によって立ち入りが制限されていました。
これは笠山が萩城の北東(鬼門)にあたるためで、藩では笠山を「御立山(おたてやま)」と称して樹木の伐採や鳥獣の捕獲を禁止していました。
そのためこのあたり一帯の自然が保たれ、全山原生林の様相を呈して大木に覆われていたといいます。
しかし明治になってその禁が解かれると、大木は切り倒されて主に薪の用材となり里山としての利用がすすみ、その代わり昔日の面影はなくなってしまいました。
そんな状態だった笠山に昭和45年に転機が訪れます。
萩の椿の調査のために訪れた椿研究家の渡邉武博士が、ここの雑木やつる草を取り除けば立派な椿林として観光資源になると時の市長に進言したのです。
市は博士のアドバイス通りに林の整備に努め、結果今のような立派な椿林となったのです。
この群生林は平成14年に市の指定天然記念物となっています。また大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地にもなったのも記憶に新しいところです。
椿にはいくつもの品種がありますが、萩群生林内の主な椿には、萩小町、萩の里、笠山侘助(わびすけ)、笠山黒、白毛紅(はくもうこう)、深草の少将などがあります。
ツバキというとサザンカも九州各地から取り寄せられていました。
サザンカはバラに似ていて、欧州で人気が出たのもわかりますね。
群生林の一角に樹木が切断され切り株となった場所がありますが、これは樹勢回復を狙った実験地区です。
明治から昭和20年にいたる80年間において、少なくとも3~4回の伐採が行われたと考えられており、これが全国有数の高密度の椿の自生林を育んだといわれています。
笠山の群生林は、人の手で植えられた椿の木は一本もないにもかかわらず、定期的な人の手入れによって独特な群生林を人工的に造ったともいえます。
しかし最近、特にこの5年ほどですが、集団的に樹勢が衰えるという症状がみられるようになりました。
原因ははっきりとはわかっていませんが、このままでは枯死も考えられるため、明治以来の「薪の畑」の原点にもどり、伐木による切り株からの萌芽再生を試みることにしたのです。
今回の椿祭りの時期ではすこし満開の時期が過ぎていましたが、それでも椿の美しさを楽しめました。
椿は11月ごろから咲き始め、3月下旬までは例年咲いていることが多い息の長い花ですので、冬の時期の花を楽しみに笠山に来てほしいと思います。