長府にある忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
忌宮神社は下関は長府の伝統的保存地区の中心部にあります。
古事記、日本書記にも記されている由緒ある神社です。
仲哀天皇とそのお后である神功皇后と応神天皇をお祀りしており、文武の神(勝運の神)安産の神として歴代の朝廷や武家をはじめ多く庶民の信仰を受けてきた社です。
忌宮神社は第14代仲哀天皇が九州の熊襲ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して7年間政務をとられた旧趾にあります。
そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられました。これが当社の起源です。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられましたが、1年にして崩御せられたので神功皇后は喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(仮埋葬)せられました。
穴戸(あなと)とは長門の旧名称で、穴門と書くこともありました。
穴門とは直接的には関門海峡を指しています。
つまり穴門(長門)豊浦宮とは仲哀天皇の長門の国豊浦津における仮の皇居のことです。
仲哀天皇が熊襲を討つために長門の豊浦宮に居を構えて征討を行ったのが忌宮神社の由緒ということになります。
また境内には神功皇后が植えられたという「さか松」が安置されています。
神功皇后が新羅ご征討に際し、お手つから小松を逆さまに植えられ「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられています。
明治初年に火災に巻き込まれ後に枯死し、現在はその根幹が玉垣の内に保存されており、子孫の松が周りに松葉を茂らせております。
願掛けに力を発揮すると云われております
歴史的経緯から、歴代の武士に勝運の神様として信仰されてきました。
かの足利尊氏にいたっても楠木正成に敗れたのち、九州へ落ち延びる途中、
武運の神として知られる神功皇后の社壇(忌宮)に詣で再起のご加護を祈願したところ神願が叶ったという霊験あらたかな逸話もあり、多くの方がご祈願に訪れます。足利尊氏が神願成就に感謝し詠んだ法楽和歌は今も当社に重要文化財として残っております。
境内には「宿祢(すくね)の銀杏(いちょう)」と呼ばれる大きなイチョウの木が茂っています。
仲哀天皇や神功皇后、応神天皇に仕えた武内宿祢(たけのうちすくね)が植えたとされる古木の子孫です。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上でもっとも古い植物の一つで、宿祢の長寿伝説と結びついています。
境内には荒熊稲荷神社も併存しており、毎月3日に月次祭が斎行されます。
天下の奇祭「数方庭祭(すほうていさい)」の起源と歴史
数方庭祭(すほうていさい)は毎年8月7日~13日の間、社殿西側境内にある「鬼石」とよばれる平たい石の周囲を、男性は大幟(おおのぼり)を抱え立て、女性は切籠(きりこ)を持って回る行事のことです。
大幟は竹を二本つなげた長い大竿(おおざお)になっています。
大幟の長さは20~30m、重さは60~80㎏にもなりますので、一朝一夕では持ち続けることはできません。
先端には”鳥毛”が取り付けられています。古代の鶏(黒がしわ)の毛を原則として使うことになっていますが、最近は茶色や白色の毛を使うこともあるそうです。

境内で飼われている鶏
先端から少し下のところに”ダシ”と呼ばれる家紋がはいった小旗が取り付けられます。
そのすぐ下に鈴が取り付けられ、その下に幟(のぼり)がとりつけられる形式になっています。
この幟、正式には1反幟といい、1反の木綿布を二ツ折りにして、独特の縫い方で作られています。
祭りではこの大幟をそれぞれ一本ずつ男性が両手で抱え込み倒れないようにバランスをとりながら、ひたすら制限時間中大幟を支え続けるのです。
バランスを崩してたおれそうになっても、神社の境内を囲うかのように縄が幾重にも張っており、竿のどこかが縄にあたって支えてくれるようになっています。
しかし極端にバランスを崩すと縄にかからない形で危ない倒れ方をしてしまいますので、持ち手の側には最低でも一人は補助する方がついて見守っています。
境内には複数の持ち手がヨロヨロと動いているので、お互いに当たらないように気を配りながら時には声掛けしながら持ち続けます。
子供もすこし小さめの軽い竹竿を使って祭りに参加していました。
見てる方もバランスを崩しそうになるとドキドキしながら見守ることになるので、かなり手に汗握る御祭りです。
時間が来ると一旦お休みして、今度は女性たちが切子を持って境内を周回します。
切子というのは笠のふちに燈籠(とうろう)をつるしたものです。
それが笠が七夕笹(ささ)に推移してきたのです。
このように数方庭祭は見てる分には楽しく手に汗握る御祭りですが、実際に持ち手として参加するには一定のハードルがあります。
危険を伴う行事であるために、日々の訓練が欠かせないのです。
そのために事前に奉仕者のグループ(神社青年会・商店街・会社企業など)に入る必要があります。
さて数方庭祭は天下の奇祭といわれるおもしろい祭りですが、その起源については諸説あります。
その内容の多くについて、豊北歴史民俗資料館館長の吉留徹氏にお教えいただきました。
また関連資料として山口県の文化財要録の「忌宮神社の数方庭行事」を参考にしました。
数方庭の由来伝承については以下のように3つの説があります。
1.「三韓征討」と「熊襲」の2つの話 (明治34年)
2.神功皇后が「熊襲征討」の「出陣式或は凱旋祝」(明治37年)
3.「仲哀天皇と塵輪+熊襲征伐」の戦勝が縁起(大正6年)
神社では以下に書かれているように3つ目の説を採用しているようです。
豊浦宮に新羅の塵輪が熊蘇を煽動して攻め寄せ皇軍も奮戦しましたが、
宮門は破られ武将が相次いで討ち死にしていくさまをご覧になった仲哀天皇は大いに憤らせ給い、御自ら弓矢を執って見事に塵輪を射倒されました。これを見た賊どもは色を失って退散しました。皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振って塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが、数方庭の起こりと伝えられています。
ここにでてくる”塵輪(じんりん)”とは、朝鮮半島の新羅の大将のことです。
石見神楽の演目では、黒雲に乗って空から人民を弓矢で射殺していた赤い顔をした、頭が八つある鬼神であり牛鬼として描かれています。
演目では宮門を守護する阿部高麿・弟助麿が相次いで討死するほど苦戦します。
しかし天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず」と大いに憤たせ給い、自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落とすのです。
討ち果たした塵輪の首級(くびじるし)は皇軍によって大きな石で覆われましたが、この石が”鬼石”と呼ばれるようになったのです。
この鬼石、普段は境内の中央にあって囲いで守られているのですが、祭りの最中は囲いが取り払われて代わりに踊りの最中に鳴らされる太鼓が中央に置かれます。

太鼓の下に隠れてますが、長径85㎝、短径50㎝の鬼石。
ではそもそも数方庭祭とは何のために行われる祭りなのでしょうか。
諸説ありますが、紹介するのは次の3つの説です。
一つ目は精霊を招魂鎮魂するための念仏踊という説です。
二つ目は、韓半島の蘇塗(そと)系の農耕行事の影響を受けた風鎮祭が変容したという説です。
そして三つ目が、八幡信仰・神功皇后伝承を背景とする安産・子育て信仰という説です。
二つ目の説の「蘇塗」とは朝鮮半島で祭りの際に使用されるソッテ(鳥杆・神竿・鳥竿)、竿の先端に木製の鳥をつけたもののことです。
この鳥杆あるいは蘇塗を立てて鈴を懸け鳴らする信仰が鳥霊信仰です。
鳥杆を立てる信仰は中国東北部や朝鮮、シベリアにもあります。
日本では吉野ヶ里遺跡を始め弥生時代の出土品から、杆頭にとりつけられている木製の鳥が頻出しています。
このため日本にも同様な鳥霊信仰と複合した鬼神の祀りが行われ、鳥杆と大木をたて銅鐸をかけて打ち鳴らす音色にのって、地を鳴らし舞い踊っていたと推測されています。
またそもそも「数方庭」なる言葉はどこから来たのでしょうか。
一説によれば「蘇塗」との関係から来ており、 ソト→ソッティ→スサルティ→スホウティ=「修法庭」と訛って変化したのではないかと考える人もいます。
吉留氏によれば明治大正期の新聞資料において「数方庭」の表記には多様性と変遷が見られます。
表記では「数波不夫以」「数方勢」「数方庭」「数法庭」「数宝庭」「数多勢」「修法庭」など、呼称は「スホウティ」「スホーデイ」「スホーデン」「スッポウディ」となっています。
明治34年「數方庭祭」、明治40年「數方勢祭」等、新聞紙上では混合されて使われてたのですが、大正末には「數方庭」に統一されたようです。
このように数方庭祭はその特異さゆえに民俗学や地方習俗の研究の対象となってきました。
おそらく歴史の長い祭りであるために、その時々の習俗も取り入れながら連綿と現代まで続いてきたのだと思います。