目次
モダニスト作庭家「重森三玲」の庭を楽しめる漢陽寺
漢陽寺は周南市北部の鹿野上という地域にあり臨済宗南禅寺派の寺院です。
中国高速道鹿野ICすぐなのですが、地道で行く場合は結構不便なところにあります。
しかし行くだけの価値がこのお寺にはあります。
それは昭和の代表的な作庭家である重森三玲(みれい)氏の庭が見れるからです。
それも平安時代から鎌倉、安土桃山時代まで時代ごとに6つの庭を一度に楽しめるのです。
またそれらに加えて弟子の齋藤忠一氏の作庭も堪能することができます。
重森氏は岡山生まれで画家を目指して上京し日本美術学校に入学しますが、全国からの才能に出会って意気消沈します。
重森氏はそこで日本画以外にも茶道や生け花の修行に励みます。
そのあと独学で日本庭園の研究を始めます。
重森氏の研究は26巻に及ぶ「日本庭園史図鑑」、33巻に及ぶ「日本庭園史大系」へと結実し、日本庭園史の礎を築きます。
重森氏の作庭の特徴は石組(いわぐみ)の力強さと苔の地割で構成されるモダニズムにあるといわれます。
ちなみに石組は伝統的に”いわぐみ”と読みます。
重森氏の作品は関西を中心に残っていますが、個人的に見たことがあるのは京都東福寺の方丈庭園、岸和田城の八陣の庭、大阪の豊国神社の秀石庭です。
どれもかなり明確な幾何学的な石模様をしていて、ある意味モダンな建築物を見慣れている現代人にはわかりやすい作風だと思いました。
この投稿をInstagramで見る
重森氏の作品の中で珍しく関西から離れて山口に唯一あるのが漢陽寺の庭なのです。
ところでこの重森氏なのですが、誕生時の名前は”計夫”でした。
ある時出家までしてフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーにちなんで改名したのです。
ちなみに5人の子供にはそれぞれ、完途(カント)、弘淹(コーエン)、長女には由郷(ユーゴー)、埶氐(ゲーテ)、貝崙(バイロン)と名前を付けていて筋金入りの西洋かぶれでした。
ちなみに次男の弘淹氏は下瀬信雄さんの記事でも触れた東京総合写真専門学校の創始者です。
ところでこの漢陽寺なのですが、今回はモノクロ写真で掲載しています。
その理由の前に少し建築史と写真史について触れておきます。
京都に日本の建築の代表的な建築物といわれる「桂離宮(かつらりきゅう)」があります。
桂離宮は建築史を語るうえで一大トピックになってきました。
それは桂離宮が日本庭園の傑作と同時に創建当時の姿をとどめているという歴史的価値以外に、日本の建築物をどのような視点で評価するのかという建築学上の論争のテーマになってきたからです。
その一つが写真家の石元泰弘によってもたらされた桂離宮を垂直と水平線で彩られたモノクロで撮影するというモダニスト的視点でした。
石元泰弘はアメリカのシカゴで写真の教育を受けた異色の経歴をもつ写真家なのですが、シカゴはモダニズム建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが活躍した場所です。
ミースの有名な言葉に”Less is More”というものがありますが、”簡素なほうが豊か”という意味です。
ミースの建築物は簡単に言えば高層ビルのような水平と垂直によって形どられた直方体です。
装飾物を排した建築物は一見面白みのなさにつながりますが、これがモダニズム建築です。
そして石元の写真がインパクトを与えたのは、日本古来の伝統建築として評価されてきた桂離宮を西洋の合理的視点で再評価したからです。
石元の桂写真についてはこちらの「モダニストの日本美」に一部掲載されていますので感じがつかめると思いますのでご覧ください。
石元は後に桂離宮を改めてカラーで撮りなおしていますが、桂を抽象化した水平垂直円形の視点でみていることは同じです。
モノクロにすると色が捨象されるので建物や庭のフォルムや構成に焦点が当たることになります。
もともと枯山水など日本式庭園は自然の姿を抽象化して庭で小世界を表現するため、モノクロ世界とは親和性があります。
墨と筆で書かれた墨絵(すみえ)や墨画(ぼくが)の二次元の世界を庭園は日本的遠近法で三次元化しているといってもよいでしょう。
そのため黒い線で描かれた墨絵の世界を三次元化した石庭や枯山水はモノクロ撮影にフィットしやすいのです。
様々な時代と特徴の作庭
始めに申し上げた通り、漢陽寺には基本重森氏の作庭を六つ、弟子の斎藤氏の作庭一つの計七つの庭を観覧することができます。
それぞれ山門前にある「曹源一滴の庭」、本堂前の平安様式の「曲水の庭」、安土桃山様式の「玉澗(ぎょくかん)流庭園」、「蓬莱山(ほうらいさん)池庭」、「地蔵遊化の庭」、「九山八海(くせんはっかい)の庭」です。
それらに加えて斎藤忠一作の「祖師西来の庭」になります。
石庭は禅宗と強く結びついており、庭の名称もそこから来ているものが多いです。
曹源(そうげん)一滴の”曹源”とは曹渓の源泉の意味で、曹渓とは禅宗の教えを大成させた六祖慧能(えのう)禅師のことを指します。
つまり今や多種多様な禅宗ももともとは曹渓の一滴から生まれたという意味です。

曹源(そうげん)一滴の庭
「蓬莱山」というのは中国の故事にある不老不死の仙人が住む霊峰のことで、立石によってこの霊峰を表現したものが蓬莱山池庭です。
蓬莱山を模した立石のことを蓬莱石と呼びます。

蓬莱山池庭
曹源一滴の庭も蓬莱山池庭のどちらにもこの蓬莱石があります。
曲水の庭は平安時代の貴族の遊びで使われた様式の庭です。
酒の入った杯が自分のところに流れてくるまでに詩歌を詠み、飲んだ後は次に流すという優雅な遊びの舞台となる庭のことです。

曲水の庭
玉澗流庭園は安土桃山時代にはやった作庭で、玉澗(ぎょくかん)というのは中国の宋の時代の著名な水墨画家です。
玉澗流の特徴は背後に大きな築山をふたつ、その間に石橋をかけて滝を落とすというものです。
わかりにくいですが、〇を描いている部分が石橋です。

玉澗流庭園
地蔵遊化の庭は地蔵菩薩が子供たちと遊ぶ様子を平安様式の石庭で表現したもので、個人的には自分はこれが一番好きです。
本当にそのように見えてくるからです。

地蔵遊化の庭
九山八海とは仏教=インドでいう小世界のことです。須弥山(しゅみせん)を中心に九つの山と八つの海で構成される世界のことです。
須弥とはサンスクリット語の”sumeru”の当て字で、中国では妙高といいます。
日本にも妙高山がありますよね。
九山八海の庭はほかにも全国にいくつかありますが、真ん中の石が須弥山、それを囲むように八つの石があります。
下の写真でいえば池周りの石垣の上にある立石の列が九山八海になります。

九山八海の庭
漢陽寺の枯山水が面白いのは、普通枯山水というと山水が枯れるという意味の通り白石の模様が山水の流れを表しているのですが、漢陽寺には裏手から実際に回遊式の水流がでていることです。

漢陽寺潮音洞
このため漢陽寺の庭は「枯山遣水式」と呼ばれます。
実は漢陽寺にはさらに瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の庭の呼ばれる通常非公開の庭が存在します。
機会があったら見に行ってほしいと思います。
山口の総合スイーツメーカー「果子乃季」本店であじさい祭り

果子乃季柳井本店
山口県には「果子乃季」というスイーツのチェーンがあります。
大正時代創業の老舗でもともとは和菓子を中心に製造販売していましたが、今は洋菓子も手掛ける総合スイーツチェーンです。
県外の人はあまり知らないと思いますが、県内の人は皆さんは知っているというお店です。
一番の売りは「月でひろった卵」略して月卵(つきたま)というスイーツです。
果子乃季の本社は創業以来柳井にあり、今回はその本社内の敷地にあるあじさい園であじさい祭りが開催されるとのことで漢陽寺から南下していってきました。
柳井という町は白壁、金魚ちょうちんの街としても有名です。
柳井は山陽高速自動車道や山陽新幹線からも南に少し離れているために決して交通の便が良いところではありません。
瀬戸内海では淡路島や小豆島に次いで大きな周防大島への玄関口としての顔もあります。
柳井港からは愛媛の松山へのフェリー便も出ていて、四国への連絡船という機能も担っています。
そんな柳井に本拠を置く果子乃季ですが、あじさい園は圧巻の規模です。
今回18回目を迎えるあじさい祭りは週末を中心に21~23日までの3日間にわたって行われます。
近くには「やまぐちフラワーランド」もあり、祭りの期間はシャトルバスがお互いを行き来してくれますので、お花好きな人にとってはたまらない一日になるでしょう。
静謐な漢陽寺から今度はカラーあふれるあじさい祭りに来たのでなお一層そう思いました。
さて、あじさいの花を十分に堪能した後は、ケーキバイキングに伺いました。
40分の時間制で大人一人1200円でスイーツ専門店のケーキが食べ放題になります。
さすがに全種類とまではいきませんでしたが、プチタルトなども選び放題でおいしかったですよ。
その後は工房茶屋「ばさら窯」で柳井名物の茶粥御膳のランチをとりました。
静謐な漢陽寺から色鮮やかなあじさい祭りへと移動したので感動もひとしおでした。
平日の金曜日でも結構混んでいましたので、できれば日時を選んでお出かけください。