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萩ツインシネマで『ある町の高い煙突』鑑賞。松陰神社で映画のモデル日立鉱山創業者「久原房之介」講演

松陰神社至誠館で久原房之介生誕150年記念講演会

萩には久原房之介(くはらふさのすけ)という主に戦前に活躍した経済人がいます。

久原が日本企業史において重要な人物だったことは間違いないのですが、その足跡に比べて知名度は高くありませんでした。

今回は久原がどのような人物だったのか、7月12日に松陰神社の立志殿で久原のシンポジウムが開かれましたので行ってきました。

久原は萩生まれの萩育ちで、萩や須磨に今もその足跡が残されています。

この久原が今再び注目されるようになったのは、ある映画が作られたからです。

後でお話ししますが、「ある町の高い煙突」という映画です。

この映画の隠れた(事実上の)主人公が吉川晃司が演じる久原をモデルにした鉱山会社の社長です。

このシンポジウムでは三人の識者の方がそれぞれの立場から久原について論じました。

法政大学名誉教授の宇田川勝氏、松陰神社至誠館館長樋口尚樹氏、そして甲南大学教授廣山謙介氏です。

左より宇田川勝氏、樋口尚樹氏、廣山謙介氏、そして監督の松村克弥氏。

この記事の内容の多くはそこに準拠していることをお断りしておきます。

房之助は長州藩の永代家老益田家の家臣であった父久原庄三郎の四男として生まれます。

益田家のお家騒動のあおりを受けて、庄三郎は須佐から萩へと移住してきました。

萩で育った房之助は東京に出て東京商業学校(現一橋大学)と慶應義塾で簿記などの実学を学びます。

叔父で大阪経済界の重鎮だった藤田伝三郎の藤田組に入社して秋田の小坂鉱山の再生に取り組みます。

小坂鉱山で積極的に新技術の導入に取り組み、主要産品を銀から銅に転換して成功します。

そして小坂鉱山の銅生産量は全国一位となるのです。

藤田を退社した後は独立して茨城の赤沢銅山を買収し日立鉱山に改称します。

日立鉱山の開発方針は以下のようなものでした。

三井、三菱、古河と伍して日立鉱山をいかに経営するかについては他より一歩抜き出てやるよりほかない

---久原房之助談話

炭鉱・採鉱部門の機械化、大規模水力発電所建設による鉱山の電化、中央精錬所構想による大雄院製錬所の開設、積極的な鉱山買収などを通じて日立鉱山は発展していきます。

日立鉱山の成功を受けて久原は「鉱山王」の異名をとり、その勢いで事業を大幅に拡大していきます。

商社をはじめ、海運、造船、製鉄などの分野にも進出し、久原財閥と呼ばれる一大企業グループを形成するまでに至ります。

久原財閥の主要企業には、久原鉱業、日立製作所、久原商事、日本汽船、大阪鉄工所、東洋製鉄、合同肥料、共保生命があります。

今でも名前の残っている会社もありますね。

久原鉱業は後に日本鉱業となり、現在の石油精製と販売の会社であるJXTGホールディングスへとつながります。

JXホールディングスから萩市長に子供たちへの映画招待券が贈呈されました

また久原鉱業は日産自動車の前身でもあります。

日立製作所は山口県下松市に笠戸(かさど)事業所という鉄道車両の製造工場を持っており、現在英国向けの高速鉄道車両「Class800」の一部の車両を製造し英国に輸出しています。

この日立製作所笠戸事業所の前身は久原が創業した造船会社の日本汽船笠戸造船所でした。

松陰神社入り口にある日立製作所が寄贈した石灯篭

そして大阪鉄工所は日立造船の前身です。

このように今に残る大企業を傘下に持つ一大企業グループを築き上げた房之助でしたが、久原商事の資源投資の失敗で商事は破綻します。

急速に拡大させた企業グループをコントロールできなくなった房之助は、その責任をとって実業界から引退することになります。

久原房之助が一代で築き上げた財閥の企業の多くは、同じく長州藩出身で義兄である鮎川義介率いる日産コンツェルンに引き継がれていきます。

久原のご親族の方も出席されていましたが、真ん中の方は確かによく似ていらっしゃいますね。

久原は戦後政界へと進出したこともありましたが、95歳という長寿を全うして1965年に亡くなっています。

久原は関西財界の重鎮だったと同時に山口県の産業界にとっても重要な人物でした。

久原鉱業の本社は大阪中之島にあり、台湾・朝鮮・中国や東南アジアを含めた南方開発を推し進めていきます。

その一方で山口県の下松に一大工業地帯を築く計画を進めていました。

この部分については次回の英国向け高速鉄道車両の陸送プロジェクトの記事でお伝えしようと思います。

久原房之介をモデルにした映画「ある町の高い煙突」

今年の夏、産業公害=煙害をテーマにした映画が公開されています。

一応架空の舞台と人物設定になっていますが、原作は新田次郎の「ある町の高い煙突」で、先ほど紹介した久原率いる茨城の日立鉱山の話です。

原作は68年出版とありますから、久原が亡くなって3年後のことです。

当時銅の生産は国の一大事業でした。

このため製錬所から出る悪性物質を含んだ煙害の被害対策は後回しになっていました。

登壇した松村克弥監督

この煙害のせいで田畑の作物は枯れ、体調を崩す人が続出し、地域の農民たちはいよいよ集団離村を考えるに至ります。

当時は生産の効率性技術の発展に資源が投入され、煙害防止のための技術投資はほとんどされていませんでした。

仮に会社が公害防止の投資をしようともどうしていいかわからないという状態だったのです。

このため公害抑止よりも補償金で対応しようということになります。

しかし久原は煙突を高くすることによってガスを希薄化して煙害を抑えようとします。

そして総資金30万円人員延べ数3万7千人を使い幾多の困難を経ながら、1914年に日立のシンボルとなる155.7mの高さの大煙突を建設したのです。

この大煙突の効果は大きく、以下のように二つの期間では受入鉱量は30倍になっているのに補償金額は減少しています。

1907-14年間 105万円

1915-26年間 83万円

法政大学教授宇田川勝「久原翁と日立鉱山・日産コンツェルン」より

このように煙突を高くしてガスを希薄化させるという対策は単純なようでいて強力なことがわかります。

今でも美祢や宇部、周南などの工場や鉱山地帯では高い煙突が見られます。

また日立鉱山ではすでに1914年から32年の歳月をかけて大規模な植林事業を行ってきました。

日立鉱山周辺に大島桜と黒松を約500万本植林して、また地域社会に513万本分の苗木を配布しています。

植林された地域は現在平和通りや日立かねみ公園となっていて、今では桜の名所百選に選ばれるまでになっています。

映画では大資本家の久原と煙害に苦しめられる村民という単純な対立関係を描いているわけではありません。

衝突を繰り返しながらもお互いに生きる関係をなんとかつくっていこうと血反吐を吐くような思いで模索する過程を描いています。

日本の公害史におけるおそらく例外的なモデルケースとして貴重な作品になっていると思います。

『萩ツインシネマ』で「ある町の高い煙突」ロードショー初日

萩には昭和50年代から続く「萩ツインシネマ」という市内唯一というか西山陰唯一の小さな映画館があります。

「ある町の高い煙突」はこの小さな映画館で見てきました。

映画館は飲食店がいくつか入っている建物の3Fにあります。

その雰囲気は一言でいうとイタリア映画の金字塔 ”ニューシネマパラダイス” そのものです。

多少パルプフィクションも入っていると思いますが、ご覧の通りレトロ感満載ですね。

長年映画を映してきた映写機がくたびれて、そのための更新費用がなく、クラウドファンディングにトライしたのですが、多くの方のご支援で希望額を超えて集まったそうです。

ツインシネマのより詳しい歴史とクラウドファンディングの様子についてはこちらのREADYFORのURLをお読みください。

柴田支配人のご厚意で映写室を見せていただきました。

左が旧型の映写機。右がレンタル中のNEC製デジタル映写機

山口県は下関(シネマサンシャイン)と防府(イオンシネマ防府)に大規模な映画館があります。

しかし県庁所在地である山口市からも映画館がなくなって久しく、山口北中部の映画好きな人には不便なところです。

萩市民の方でもツインシネマの存在を知らない人も多いそうです。

観客の多くは年配の方でなかなか若い人はこないそうですが、無くなってしまってからその価値に気づくということもあると思います。

映画だけでなく映画館の雰囲気込みで楽しんでほしいと思います。

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