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在りし日の旧型国電「クモハ42」を偲ぶ宇部小野田写真展
6月も終わりの29日(土)に、昭和56年当時一人の青年だった吉本博史さんが撮られた「クモハ42001」の回想写真を見に行ってまいりました。
場所は宇部線の東新川駅前にある菊川画廊さんで、写真展のタイトルは『昭和56年宇部小野田線~旧型国電を偲ぶ~』とあります。
吉本さんは高校時代写真部に所属する生粋のカメラファンだったといいます。

フォトグラファー吉本博史氏
わざわざ電車通学をしたいという理由で隣町の学校に通う電車ファンでもありました。
昭和56年というのは、宇部・小野田両線を走っていた旧型車両が引退して新型車両に切り替わった年です。
吉本さんはその節目を当時の愛機だったキャノンF-1 ODで切り取ったのです。
F-1 ODは1976年に発売されたF-1改のカラーバリエーションモデルで、ODとはOlive Drab(オリーブ・ドラブ)の略です。
当時若者に人気があったU.S.アーミーカラーのF-1で、フラグシップだったF-1改と同じものです。

キャノンカメラミュージアムよりダウンロード
キャノンはあまりこういうカラーバリエーションは出さないそうですが、珍しく出したところ不評であまり売れなかったようです(笑)。
しかしこのようなカラーは今もほとんどなく、実際に中古で質の良いものは今でも人気で高値で取引されています。
自分はフィルムカメラの現像もしたことがない素人ですが、フィルム写真の色合いには魅せられます。
さて宇部線はその名の通り宇部(宇部駅)と小郡(新山口駅)を結ぶ路線です。
そして小野田線は山陽小野田市の小野田駅と、宇部市の居能駅(いのうえき)もしくは宇部新川駅を結ぶ路線です。
また小野田線は雀田(すずめだ)駅から分岐して長門本山駅へとつながる本山支線という路線もあります。
山陽本線が新山口と厚狭駅を山手側で東西に結んでいるのに対して、宇部と小野田線は海岸沿いに宇部と小野田を結んでいます。
この本山支線を走っていたのが「クモハ42001」でした。
宇部も小野田ももともとは炭鉱、石炭の町として出発して栄えてきた歴史があります。
セメントや硫安(りゅうあん)などの資源とも結びついて産業化して発展してきました。
宇部ではその中心となってきたのが宇部興産で、宇部市はその企業城下町ともいわれています。
小野田市も同様にセメント産業などで発展し、小野田セメントなどがその産業の担い手になってきました。
その工業地帯を海岸線に沿って東西に結ぶ路線が小野田線と宇部線です。
このため両線は貨物輸送が最初の主な任務でした。
しかし産業都市として発展するにつれて労働者人口も増え、クモハ車両は通勤や通学などにも使われるようになりました。
このクモハ42型は「旧型国電」という車両になります。
旧型国電とは以下のような特徴を満たすタイプの車両です。
写真展のチラシ説明より抜粋いたします。
- 発電ブレーキがない
- 電動車は1両単位
- 頑丈で重い主電動機
- つりかけ式の駆動装置
- 台わく主体の重い車体
- 車室の内装は木製
- 板ばね使用の台車
- 歯車直結式の空気圧縮機
- 2桁形式・3桁番号
・・・など 【鉄道ファン1984.1月号より抜粋】
1両単位ということで運転台が両側についている車両になります。
写真を見ると、車両前面に黄色いラインがはいっていますが、これは途中から塗装されたものです。
最初は黒っぽい塗装のみだったのですが、沿線住民が増え通勤列車としても活躍しだすと警告色としてイエローが使われだしたのです。
個人的に上の写真がなんだか愛嬌のある顔に見えてきてかわいらしいので好きです。
吉本さんがこの写真展を企画する契機となったのは、宇部線へのBRT導入の検討が開始されたというニュースを知ってからです。
BRTとは”バス・ラビット・トランジット”の略で、基本的には専用道路を走るバスという交通システムです。
鉄道より小回りが利いてコストも安く済むという利点があります。
それが宇部線で検討されるのは次に話すようにこれら沿線の乗降客数の絶対的な減少という事情があります。
1日わずか3本の運行で沿線の通学通勤を支える本山支線
写真展のついでに実際に小野田線の本山支線を、吉本さんの紹介もあって乗りに行ってきました。
本山支線は雀田駅から分岐して浜河内駅、長門本山駅へと続く路線です。
雀田駅は上の画像のように屋根がオレンジ色のとてもかわいらしい駅舎です。
クモハの車両がイエローなのと合わさってとてもメルヘンな雰囲気です。
雀田駅近くには山口東京理科大学があり、一部の学生が支線を利用しているようでしたが数は多くはありません。
一緒に乗った乗客のほとんどは自分のような撮影目的の方だったと思います。
時刻表を見ると一日三本、朝に二本、夕に一本の通勤通学目的、それも乗客数は多くはありません。
クモハの特徴は窓が四角いことです。
これはもともとこの車両が貨物用だった名残です。
驚いたのは1両車両なのにトイレがついていることです。

右側のブースがトイレ
下の写真ではわからないと思いますが、長門本山駅からは海が見えます。
周防灘でその先には門司港があります。
長門本山駅から折り返して再び雀田駅へと戻る支線のプチ往復旅でした。
厚東氏ゆかりの浄名寺で盆ちょうちんまつり
さて本日のもう一つの目的は、宇部の山手にある山陽本線沿い厚東(ことう)駅付近にある浄名寺(じょうみょうじ)で行われた「盆ちょうちんまつり」を見に行くことでした。
浄名寺を考えるときに歴代の長門守護職にあった厚東氏について話しておきたいと思います。
厚東氏を知ることはこの地域の歴史を知るとともに、厚東氏の衰退が以前記事にした大内氏の隆盛の契機となった意味でも重要です。
厚東氏は南北朝時代時代において長門守護職を務めた名門の家でした。
厚東氏の墓所がある浄名寺は厚東氏十四代武実(たけざね)公の祈願所として建立されたものです。
厚東武実は武勇に優れた武将だったらしく、厚東氏の菩提寺である東隆寺も浄名寺の裏手に開創して仏法を奨励しました。
厚東氏は謎が多いものの物部守屋を始祖とし、その末裔の武忠が棚井(宇部市)に居館を持ったのが始まりだといわれています。
厚東という氏(うじ)は厚狭(あさ)の東の地を拠点としたところから、平安時代には厚東郡司となりその氏を名乗るようになったようです。
このように厚東氏は厚狭郡東部に在地した武士でしたが徐々に勢力を広げ、源平の戦いでは最終的に源氏について壇ノ浦の戦いで戦功をあげて厚狭郡全域を治めるようになりました。
そしてさらに元弘の変で功をあげた武実は長門守護に任ぜられて、以後四代にわたって厚東氏は長門の国の守護職を務めることになります。
しかしそれ以後厚東氏は周防の大内氏との勢力争いのなかで徐々に衰退して最終的に滅びることになるのです。
厚東氏衰退の理由として挙げられているのは、一族内で内紛が起こりまとまり切れなかったことが一つ。
また守護所の長府と拠点だった厚東棚井の間には距離があり、領国を監視しきれなかったことなどがあります。
もともと周防の守護であった大内氏は厚東氏の滅亡とともに防長の守護職となり、守護大名としてその勢力を大きく伸ばしていくことになるのです。
浄名寺は創建から300年は厚東氏、大内氏の庇護を受けて貞治三年には寺領十町六反余もありましたが、毛利氏の時代には五十石まで減らされ、輝元を最後として加護は途絶えることになります。
さてそんな浄名寺ですが、この盆ちょうちんまつりは今回で3回目を数えます。
寺の中にぎっしりと敷き詰められた百余の盆ちょうちんが点灯する様はとても優美で壮観な眺めです。
特に今回はあいにくの雨が降りしきる中でしたが、それがかえって幽玄な雰囲気を醸し出していました。
これらのちょうちんは宇部や小野田の地域住民から提供されたものです。
住環境の変化で盆提灯を維持することが難しくなってきたということで、浄名寺が寄贈を呼びかけ預かることになったのです。
住職さんによれば盆ちょうちんはそれぞれの家の故人の思いがつまったもの、この機会に故人を偲び日本の伝統を見直しほしいという思いから盆ちょうちんまつりを始められたそうです。
境内には屋台が出て子供たちも楽しそうでしたし、本堂内では胡弓の調べが心地よく響いていました。
宇部についてはおいおい産業都市としての掘り下げを行っていきたいと思います。